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ホーム   時代で見る耐震工学の今と昔 / 柴田 明徳    第3回「大正・戦前の昭和期の耐震構造」
時代で見る耐震工学の今と昔 第1回 有史~江戸期までの大地震と耐震構造
第2回 明治期の耐震構造
第3回 大正・戦前の昭和期の耐震構造
第4回 戦後の昭和期の耐震構造(1)
第5回 戦後の昭和期の耐震構造(2)
第6回 平成に入ってからの耐震構造
柴田 明徳

(しばた あけのり
/ Akenori Shibata)
東北大学名誉教授

 

< 略 歴 >

1965  東京大学大学院数物系研究科建築学専攻 修了
1966  東北大学工学部 助教授
1981  東北大学工学部建築学科 教授
1994  東北大学工学部災害制御研究センター 教授
1999  東北文化学園大学 教授
1999  東北大学 名誉教授
2014  日本建築学会大賞「構造動力学の研究・教育と耐震工学の発展への貢献」

 

< 主 な 著 書 >

『最新 耐震構造解析 第2版』

 

『DYNAMIC ANALYSIS OF EARTHQUAKE RESISTANT STRUCTURES』

 

『確率的手法による構造安全性の解析 - 確率の基礎から地震災害予測まで』

 

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第3回 大正・戦前の昭和期の耐震構造

関東大震災

1923年(大正12年)関東大震災は、死者10万人の大災害をもたらしました。

後藤新平(1857-1929年、「大風呂敷」のあだ名)は、帝都復興院の総裁として、区画整理と公園・道路の整備による東京の大復興計画を策定しましたが、議会や財界の反対などで大幅に削減されました。

しかし、昭和通り、靖国通り、明治通りなど、当時の計画によるいくつかの放射・環状道路は、今の東京の骨格を作っています。

東大の佐野利器は、後藤新平の依頼を受けて復興院及び東京市の建築局長として活躍し、市街地建築物法(1919年制定)の中で、1924年に世界で初めての法的な耐震規定、震度0.1を定めました(【図1】)。

なお、米国では、1927年に制定された Uniform Building Code(UBC)において、0.075~0.1の設計震度が定められました。

左:佐野利器(1880-1956年)中上:横網町慰霊堂
中下:関東大震災の大火
右:凌雲閣の崩壊

【図1】関東大震災-1

関東大震災で、RC8階建の内外ビルは完成直前で崩壊しました。これはアメリカ式の設計で、旧型の異形鉄筋が使われ、フックはありませんでした(【図2】)。

また、火災による死者が多数出ました。

墨田区の元陸軍被服廠跡地は、運動公園の計画のため空き地になっていましたが、そこへ集まった人達を猛火が襲い、死者4万4千人の大惨事になりました。

跡地の横網町公園東京都慰霊堂(伊東忠太)・復興記念館(伊東・萩原孝一)が建っています(【図1】)。

復興記念館の外周りには、震災の記憶が陳列されていて、内外ビルの鉄筋コンクリート柱の一部もあります(【図2】)。

なお、慰霊堂には、その後の東京大空襲による死者10万人も祀られています。


左 :内外ビル(RC8階建)
右上:内外ビル柱
右下:吾妻橋麦酒工場鉄柱

【図2】関東大震災-2

関東大震災の前に、1905年の雑誌「太陽」の記事から始まって長く続いた、有名な大森・今村論争がありました。

関東大震災の危険を力説する今村明恒(1870-1948年)に対し、大森房吉はそれを否定する立場でした。

この論争は、大森が震災直後に亡くなって決着します。

大森の後、今村が東大の地震学教授になります。

今まで何度か出てきた凌雲閣は、この地震で破壊され、工兵隊によって爆破されました(【図1】)。

寺田寅彦はこの現場を見ていて、“Liber Studiorum” (Book of Studies、ターナーの風景画集の名前)という題の随筆の中に、爆破の寸前、人々が後へ引く中を子犬がトボトボと現場へはいって行ったが、どうなっただろう、という意味の文を書いています。

これはネットの青空文庫にあり、無料で読めます。

内藤多仲(1886-1970年)が有名な「トランク間仕切り」の耐震壁理論で設計した日本興業銀行(鉄骨造7階建)は、震災でも無被害でした。

内藤は早稲田の建築学科で多くの学生を育てました。

剛柔論争

震災後に起こった剛柔論争は、剛な建物と柔な建物のどちらが耐震性に優れているかという議論で、佐野利器らの剛構造派と真島健三郎の柔構造派の論争が1927年~1935年頃まで続きましたが、肝心の強震動の記録がないため、水かけ論になりました。

1935年に京都大学の棚橋諒(1907-1974年)が弾塑性ポテンシャルエネルギー説を出して一応の終了となりました。

京大に耐震の新しい学派が棚橋を中心に生れます。

地震研究所と末広恭二

関東大震災の2年後1925年に東大地震研究所が設立され、末広恭二(1877-1932年、造船学)が初代所長事務取扱になりました(【図3】)。

物理学の寺田寅彦も地震研究所を兼務します。

末広の地震波分解器(1926年)は、地震工学で一番大事な応答スペクトルについての最初の研究でした(【図3】)。

【図3】左:末広恭二(1877-1932年) 右:地震波分解器(1926年)

1931年に末広がアメリカの諸大学で行った講演は、関東大震災の被害の分析と共に、当時まだ得られていない強震記録の重要性を強く訴え、大きな感銘を与えました。

その翌年に彼は55歳で亡くなりますが、彼の講演内容を収めた1932年のASCE論文(Engineering Seismology Notes on American Lectures)の冒頭にある土木学会会長J. R. フリーマン(1855-1932年)の弔辞は、末広への敬意に溢れています。

フリーマンは、米国での強震計の開発を強く推進させます(【図4】)。

【図4】左:John. R. Freeman(1855-1932年)
右上:US Coast and Geodetic Surveyが開発した強震計 右下:1933年ロングビーチ地震による最初の強震記録

強震観測

1933年アメリカのロングビーチ地震ではじめての強震記録が得られました(【図4】)。

その時得られたヴァーノン記録は、NS 0.13G, EW 0.15Gです。

また、7年後の1940年のインペリアルバレー地震では有名なエルセントロ記録(NS0.32G)が得られています。

日本では、終戦後の1952年から強震計SMACによる強震観測が始まります。

応答スペクトル

地震工学の基本となる応答スペクトルの概念を確立したのは、CaltechのM. A. ビオー(1905-1985年)です(【図5】)。

それは、彼の1932年の博士論文で提示されました(Trifunac, Soil Dynamics and Earthquake Engineering, 28, 2008)。

年配の方には、カルマン・ビオ―の「工学における数学的方法」は思い出の一冊でしょう。

1941年のBSSA論文では、機械的アナライザーで強震記録の応答スペクトルを求めています(【図5】)。

【図5】左:Maurice A. Biot(1905-1985年) 右:ビオーの機械的アナライザー(ねじれ振子、1941年)

 

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