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ホーム   時代で見る耐震工学の今と昔 / 柴田 明徳    第2回「明治期の耐震構造」
時代で見る耐震工学の今と昔 第1回 有史~江戸期までの大地震と耐震構造
第2回 明治期の耐震構造
第3回 大正・戦前の昭和期の耐震構造
第4回 戦後の昭和期の耐震構造(1)
第5回 戦後の昭和期の耐震構造(2)
第6回 平成に入ってからの耐震構造
柴田 明徳

(しばた あけのり
/ Akenori Shibata)
東北大学名誉教授

 

< 略 歴 >

1965  東京大学大学院数物系研究科建築学専攻 修了
1966  東北大学工学部 助教授
1981  東北大学工学部建築学科 教授
1994  東北大学工学部災害制御研究センター 教授
1999  東北文化学園大学 教授
1999  東北大学 名誉教授
2014  日本建築学会大賞「構造動力学の研究・教育と耐震工学の発展への貢献」

 

< 主 な 著 書 >

『最新 耐震構造解析 第2版』

 

『DYNAMIC ANALYSIS OF EARTHQUAKE RESISTANT STRUCTURES』

 

『確率的手法による構造安全性の解析 - 確率の基礎から地震災害予測まで』

 

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第2回 明治期の耐震構造

ジョン・ミルンと日本地震学会

明治維新の後、近代化を目指した日本は、西欧の学問・技術を導入するため、多くの「お雇い外国人」を招きました。

その数は、3,000~4,000人と言われ、英国人が最も多くて半数近く、また米国、フランス、ドイツ、オランダ等からも招きました。

日本の様々な制度や学問・技術の発展に対するかれらの貢献は、極めて大きかったと思われます。

ジョン・ミルン(1850-1913年)は、工部大学校(後に工科大学)の鉱山学のお雇い外国人教師として、26歳の時ロンドンからイルクーツクを経てモンゴルを横断し、汽車、船、馬車、駱駝などによる半年の大旅行の末上海に到着、1876年春東京にやってきました(【図1】)。

ジョン・ミルンとトネ・ミルン、グレイ-ミルン地震計

【図1】ジョン・ミルン(1850-1913)とトネ・ミルン(1860-1925)、グレイ-ミルン地震計

1880年の横浜地震を経験して大きな衝撃を受けたミルンは、世界で最初に日本地震学会を設立し、精力的に地震の研究を始めます。

会長には服部一三を立て、自分は副会長として実質的に会の殆どの運営をしました。

ミルンは同僚のユーイング(機械工学・物理学、24歳で赴任、5年間在日)やグレイ(電信工学、5年間在日)等と共に地震計の開発に取り組み、幅広い地震学や耐震の研究を精力的に行いました。

ユーイングも地震の研究に熱心で、大学構内に地震観測所を設置しています(1880年)。

当時、多くの学者が地震に関心を持ち、政府側も地震研究が必要と考えていた様です。

1886年に帝国大学が発足し、関谷清景(1854-1896年)が理科大学の地震学の初代教授になりました。

関谷は、ユーイングの弟子で、ミルンからも学び、日本の地震学の構築に力を尽くしましたが、若年時代のロンドン留学で肺病にかかり、その後も病に悩まされ、残念ながら早く亡くなりました。

濃尾地震と震災予防調査会

1891年に濃尾地震(M=8.0)が起こり、死者は7,000人を超え、住家や土木建築構造物にも大きな被害が出ました。

根尾谷断層は、上下6m、水平2mずれました。

ミルンは、同僚のバートン(衛生工学、浅草凌雲閣の設計者)、写真師の小川一真とともに調査に行き、立派な写真集を出しています(【図2】)。

濃尾地震による名古屋紡績工場の被害
左:濃尾地震による名古屋紡績工場の被害
右上:ミルン・バートン・小川 写真集(第1版)
右下:根尾谷断層(写真集第2版、第1版にはない)
The Great Earthquake of Japan
"The Great Earthquake of Japan 1891"
by Milne, Burton, Ogawa
The Neo Fault
"The Neo Fault"

【図2】濃尾地震

翌年の1892年には震災予防調査会が文部省に設置され、地震学や耐震構造学の研究が精力的に行われました。

ここで大きな成果を挙げたのが第2代地震学教授の大森房吉(1868-1923年)です。

彼は、地震学の多くの研究と共に、耐震構造の研究も進めました。

振動測定も五重塔、浅草凌雲閣など沢山行っています(【図3】)。

「浅草十二階」と呼ばれた凌雲閣は、後の1923年関東地震で倒壊します。

大森房吉

【図3】左:大森房吉 中上:凌雲閣の微動測定(T≈1.08s) 中下:浅草と凌雲閣(ミルン所蔵スライド)
右:凌雲閣の構造(52m、レンガ造)

ミルンは函館の願乗寺の娘トネと結婚して19年を日本で暮らしたのち、トネを伴って英国へ戻り、ワイト島のシャイドで世界規模の地震観測を行いました。

サンフランシスコ地震

1906年にサンフランシスコ地震(M=8.3)が起こり、死者は3,000人、多くの建物が大被害を受けました。

鉄骨の高層建物が大破し、大火災も発生しました。

スタンフォード大学はこの地震で大変な被害を受けました。

地震の100周年に作られたホームページ(“Stanford University and the 1906 Earthquake”)には、大学の被災と復興の様子が詳しく出ていて、伝説のアガシ教授石造の転落写真もあります(【図4】)。

当時の学長が、誰かが次の様に言った、と書いています。

“Agassiz was great in the abstract, but not in the concrete.”

Louis Agassizは、ハーバード大学教授、有名な地質・生物学者で、進化論の強力な反対者でした。

この石像は殆ど無傷で、元の位置に戻されています。

サンフランシスコ地震によるスタンフォード図書館の被害
左:サンフランシスコ地震によるスタンフォード図書館の被害
右上:L.アガシ教授
右下:アガシ教授石造の落下
L.アガシ教授
(1807-1873)
アガシ教授石造の落下

【図4】サンフランシスコ地震

佐野利器(1880-1956年)は、東京帝大の建築学科を出て3年目の26才で、震災予防調査会から大森房吉、中村達太郎両博士と共にサンフランシスコ地震の調査に赴きました。

同年の建築雑誌「加州震災談」に被害の状況を報告し、鉄筋コンクリート造の耐震性を強く主張しました。

1910年に欧米を視察、1911~1914年ドイツに留学した佐野は、1914年に「家屋耐震構造論」を著して佐野震度を提唱し、15年教授になります。

メッシナ地震と静的水平震度

1908年にイタリアでメッシナ地震(M=7.1)があり、死者は8万2千人、近代ヨーロッパ史上最悪の地震被害でした。

脆弱な煉瓦造の建物は地震に耐えられず、メッシナの町は地震と津波で壊滅しました。

津波は最大12mに達したとされています。

大森房吉は、この地震を調査し、英国のBulletin of the Imperial Earthquake Investigation Committeeに報告を寄せています(1909年)。

この地震では、当時開発が進んでいたウィーヘルト地震計などにより、各地で多数の地震記録が得られました(【図5】)。

メッシナ地震

【図5】左:メッシナ地震によるレンガ造の被害
右上:メッシナ地震の震源域 右下:ウィーヘルト地震計の記録(ドイツ)

この地震のすぐ後、イタリア政府は9人の技術者と5人の教授からなる委員会を作って調査と検討を命じました。

その報告書では、建物は1階の重量の1/12、2階の重量の1/8の水平力に耐えるべき、としています。

これは世界で最初の静的水平震度の考え方でした。

 

>> 第3回「大正・戦前の昭和期の耐震構造」