キャンペーンのご案内
  • 第1回:令和と地震
  • 第2回:地震・火山が育む日本社会
  • 第3回:南海トラフ地震を凌ぐ
  • 第4回:産業レジリエンスとサプライチェーン
  • 第5回:相互依存する社会インフラ
  • 第6回:地震荷重から見た耐震基準の矛盾点
福和 伸夫

(ふくわ のぶお
/ Nobuo Fukuwa)

名古屋大学 減災連携研究センター 教授

 

Yahooニュース個人のホームページ:
https://news.yahoo.co.jp/byline/fukuwanobuo/

論座のホームページ:
https://webronza.asahi.com/authors/2017083100005.html

福和伸夫のホームページ:
http://www.sharaku.nuac.nagoya-u.ac.jp/~fukuwa/

減災連携研究センターのホームページ:
http://www.gensai.nagoya-u.ac.jp/

 

1981年に名古屋大学大学院を修了後、清水建設にて原子力発電施設等の耐震研究に従事し、1991年に名古屋大学に異動、工学部助教授、1997年先端技術共同研究センター教授、2001年環境学研究科教授を経て、2012年より現職。建築耐震工学、地震工学、地域防災に関わる教育・研究に携わりつつ、防災・減災活動を実践。防災功労者内閣総理大臣表彰、文部科学大臣表彰科学技術賞、日本建築学会賞、同教育賞、同著作賞、グッドデザイン賞などを受賞。近著に「次の震災について本当のことを話してみよう」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために」(時事通信社)、「耐震工学-教養から基礎・応用へ」(講談社)。

令和と地震

令和の時代を迎え改めて地震との付き合い方を考える

11年前に、「都市環境学で紐解く地震と建築」と題して、このSEINWEBに6話のブログを紹介しました。その後11年の間に、東北地方太平洋沖地震や熊本地震など、多くの被害地震が発生し、台風や豪雨にも見舞われました。そして、南海トラフ地震や首都直下地震の発生や、気候温暖化に伴う風水害の増大が懸念されています。

この間、私も、南海トラフ地震に備えて、名古屋大学に減災連携研究センターや減災館を開設し、自治体や産業界とあいち・なごや強靭化共創センターを設立するなどしてきました。その中で、社会が抱える課題も理解できるようになってきました。今回のシリーズでは、少し建築から引いた眼で、社会の安全について今感じていることをご紹介したいと思います。

なお、ここでご紹介する内容は、拙著、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信出版社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)、「耐震工学~教養から基礎・応用へ~」(講談社)や、Yahooニュース個人や朝日新聞「論座」に投稿した記事と重なることをお断りしておきます。

平成時代の地震の多発

平成の30年間は、1959年伊勢湾台風以降の昭和後半30年間と比べ、地震が多発しました。震度7の地震は、兵庫県南部地震、新潟県中越地震、東北地方太平洋沖地震、熊本地震の前震と本震、北海道胆振東部地震と6つ、死者が200人を超える地震も北海道南西沖地震、兵庫県南部地震、東北地方太平洋沖地震、熊本地震と4つあります。いずれも昭和後半には無かったことです。西日本内陸での被害地震もたくさん起きています。南海トラフ地震の準備過程のようにも感じられます。

令和と地震の関り

元号「令和」は、万葉集第五に収録された「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」からとったとされています。

【写真1】新元号「令和」発表の様子。

この歌は、大宰府長官に当たる大宰帥の大伴旅人(665~731年)が、大宰府で催した「梅花の宴」で詠まれた梅花の歌三十二首の序文にあります。「初春令月、気淑風和」は、中国の昭明太子(501~531年)が編纂した文選にある「仲春令月、時和気清」と関りが指摘されています。確かに、類似しています。これは、張衡(78~139年)が帰田賦に詠んだものです。

【写真2】当時の太宰府の長官大伴旅人の邸宅で開かれた「梅花の宴」を博多人形で再現した模型。
「製作 山村延燁」「所蔵 公益財団法人古都大宰府保存協会」。

文選は中国の美文の集大成で、遣隋使や遣唐使が日本に持ち帰ったので、万葉の歌人たちも、文選で中国の古典を学んでいたと想像されます。

張衡は、稀代の天才で科学者でもありました。天体測定の渾天儀を発明し、「霊憲」という天文書も著しています。地震との関わりでは、候風地動儀という世界初の地震計を開発しています。132年に初めて制作し、138年には洛陽に置いてあった候風地動儀が、1,000kmも離れた甘粛省朧西の地震を観測したそうです。令和と地震は、張衡を介して関りがあるようです。

【写真3】中国後漢の張衡が132年に考案した世界最古とされる地震儀。

菅原道真と地震の関り

大宰府と言えば菅原道真(845~903年)を思いだします。学問の神と言われる菅原道真は、870年に官吏登用試験・方略試を受験しました。200年間に60人しか合格しなかった超難関の試験です。問題は、「明氏族」「弁地震」の2問でした。地震について弁ぜよとの問いに対して、道真は、張衡が作った地動儀が遠く離れた地震を検知した、と回答して方略試に合格しました。700年以上も前の中国のできごとを回答したということは、当時の知識人は中国の影響を強く受けていたことを示唆します。

地震に関する問いが出題されたのは、当時の活発な地震・火山活動の影響だと思われます。道真が方略試を受ける前には、863年に越中・越後の地震、864年に富士山と阿蘇山の噴火、868年に播磨・山城の地震、そして869年に東北地方太平洋沖地震と類似した貞観地震が起きています。

貞観地震での多賀城(宮城県多賀城市)の様子は、日本三代実録に記されています。当時、多賀城は蝦夷に対峙する拠点で、朝鮮に対峙する大宰府と並ぶ重要拠点でした。この地震の後、祇園で御霊会が行われ、祇園祭の発祥になったともいわれます。清少納言の父の清原元輔は、「後拾遺集」に、「契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは」と、多賀城の「末の松山」を歌枕にした和歌を詠みました。2011年東北地方太平洋沖地震では「末の松山」には、津波は到達しておらず、和歌を彷彿とさせます。

道真と天神さん

道真が官吏になった後、871年鳥海山噴火、874年開聞岳噴火、関東地震が疑われる878年相模・武蔵の地震、880年出雲の地震、881年京都の地震、885年開聞岳噴火、886年安房国(千葉)の地震、南海トラフ地震の887年仁和地震など、地震・火山噴火が続きます。平成の30年間の地震・火山活動と類似した場所で起きています。

道真は、これらの災害に対応しつつ国政を担い右大臣に昇進しました。ですが、左大臣・藤原時平との軋轢や、家格を超えた昇進への妬みもあり、901年に大宰府に左遷されます。そのときに詠んだ歌が、「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」です。903年に亡くなるときには、「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」と、牛車を人に引かせず、牛に遺骸をのせ、牛が留まるところを墓所にせよと命じたようです。

道真の死後、天変地異が多発し、都で不吉なことが次々と起きました。そこで、道真の御霊を鎮めるため、道真の墓所に社殿を造営し、919年に安楽寺天満宮を創祀します。これが太宰府天満宮の本殿です。天神さんと梅と臥牛の関係も理解できます。

【写真4】太宰府天満宮

毎年、多くの受験生が合格祈願に天神さんを訪れますが、天神さんと地震との関りを知れば、地震を身近に感じてくれるかもしれません。

改元と地震

現在は、天皇が退位するときに改元(代始改元)が行われますが、かつては、代始改元に加え、祥瑞改元、災異改元、革命改元がありました。災異改元は、天変地異、疫疾、兵乱などの厄災を避けるための改元です。

地震と関りのある改元には、938年承平から天慶(京都などで地震)、976年天延から貞元(山城・近江で地震)、1097年嘉保から永長(永長地震、南海トラフ)、1099年承徳から康和(康和地震、南海トラフか京都)、1185年元暦から文治(文治地震)、1293年正応から永仁(永仁鎌倉地震、相模トラフ)、1317年正和から文保(京都で地震)、1326年正中から嘉暦(正中地震、柳瀬断層)、1362年康安から貞治(正平・康安地震、南海トラフ)、1449年文安から宝徳(山城・大和の地震)、1596年文禄から慶長(伊予地震、豊後地震、伏見地震が続発)、1704年の元禄から宝永(元禄地震、相模トラフ)、1831年文政から天保(文政京都地震)、1855年嘉永から安政(安政地震、南海トラフ)などがあります。

これらは、京都が強く揺れた地震、幕府が関東にあったときの相模トラフ地震、南海トラフ地震に相当します。すなわち、首都直下地震や南海トラフ地震が起きると改元していたようです。ちなみに、文治地震は、鴨長明の方丈記に「世の不思議五」として記されており、地震で発生する様々な事象が見事に描かれています。

南海トラフ地震前後の地震の活動期

南海トラフ地震の発生前後は、西日本は地震の活動期になります。例えば、文禄から慶長、元禄から宝永、嘉永から安政への改元の時期は、この地震の活動期に当たります。それぞれに対応する南海トラフ地震は、1605年慶長地震、1707年宝永地震、1854年安政東海地震、安政南海地震です。ちなみに、宝永地震の49日後には富士山の宝永噴火が、安政地震の翌年には安政江戸地震が起きました。これらの時期は、安土桃山時代から江戸時代、元禄文化の終焉、江戸時代から明治時代へと、歴史の転換期に重なります。

明治以降は、災異改元は無くなりましたが、1923年関東地震から1944年東南海地震、1946年南海地震に至る時代には、多くの被害地震が発生し、大正デモクラシーの時代が、開戦から敗戦へと移っていきました。

このように、南海トラフ地震や首都直下地震は、改元せざるを得ないような一大事件だということのようです。

終わりに

令和の時代を迎え、南海トラフ沿いの地震や首都直下地震の発生が懸念されています。菅原道真が生きた貞観の時代を思い出すと、富士山の噴火も気がかりです。南海トラフ地震については、確度の高い地震の予測は困難との見解が示され、南海トラフ地震臨時情報が提供されるようになりました。気を引き締めて地震対策を進めていきたいと思います。

2020年1月